今だから話せる・・ビン沼恐怖

 私は対岸に向かって走った。川面に転倒し、ずぶ濡れをかまわず走った。川石で手を切り血だらけをかまわず走った。・・・40年前のあの恐怖の旋律は生涯私の心から離れないであろう・・。


埼玉県と東京都を流れる荒川は秩父山系の一つ甲武信ヶ岳からの水源として発し、末は東京湾に注ぐ全長約170キロの、その名のとおり昔は暴れ川として有名であった。 そのため数々の治水対策によって流れは大きく変えられ、下流域は東京都北区で二分されて、荒川放水路と、一方は岩淵水門を経て隅田川と名前を変える。

その、荒川中流域に架かる治水橋(じすいばし)を大宮市(現 さいたま市)側から渡ると富士見市となり、県道から脇に反れると間もなく旧荒川であった通称 ビン沼 に到る。 ここは今も昔も太公坊で賑わう所だ。

で、あるから 迷惑を蒙る人がいそうだから親しい友人にしかこの話はしていない。 しかし40年の歳月が流れ・・もう時効・・と感じるし、私の心の内に秘めておくのもナ?・・と、最近になって思う。

あれは 昭和39年9月23日、ちょうど東京オリンピックが開催された年である。私が勤め始めて半年ほど経った頃の仕事に四苦八苦している時で、気晴らしに休日には釣りをあちこちで楽しんでいたのだが 23日はそのビン沼に行ってみた。 昼ごろに釣り場に着いたが、年配の方は御存知だと思うけれど、その頃のビン沼は両岸の高い土手に笹や雑木が生い茂り、澄んだ水面の所々に ヒシ (菱・・三角の実をつける水生植物・・茹でて食べられる) が群生していて現在の立派な護岸工事が成されたビン沼とはおよそかけ離れた山間の沼・・という趣であった。

以前にも何度か来ていて、向こう岸のポンプ小屋付近が比較的魚影が濃いのを知っていたから、ためらわず自転車を土手に立てかけ、浅瀬を膝下まで水に浸かり対岸に渡って三人の先客に簡単な挨拶をし、間に入れてもらった。 水面に映えるヒシの葉の陰影がことさら綺麗に見える初秋の沼を前に私は竿を出したまま寝転んで空を見ているうちに、いつしか寝てしまったようで気がついたのは午後三時を回っていた。

先の先客はまだ居て・・「ニイチャン気持ちよく寝ていたな〜ハハハ」・・と、声をかけたから私も・・「いや〜極楽ですね、アハハ」・・ それから本格的に釣り始めたが、五時頃には一人二人と帰っていって私一人になったけれど今日はアタリが良く・・いつもの悪い癖で もう少しもう少し・・と粘った。

しばらくして水面が大きく ゴボッ と音を立てた。 鯉でも跳ねたのだろうと意に返さずにいた・・が、時折その水中から・・コポコポ・・と泡が立ち昇っていた。 釣りに夢中のときは誰もがそうであるように、ほとんど 浮き と 水面しか見ていないものだから、私との距離が5メートル程のところに何時の間にか一人の釣り人が来ているのに気がつかなかった。 黒いマントのような被り物で顔を覆い、長袖で色の濃い格子の柄の赤シャツを着て、黒いズボンを履いており、釣竿は 延べ竿であったから・・珍しいナ・・と思った。

地元の釣り師は、よく、この時刻にサッと来て・・いいとこ取りの釣りをする・・ということを私は知っていたから気にもしなかった。 が、何時まで経っても身動きしないし、竿も上げ下げしないのだ。 だが、良く聞き取れないが時々ブツブツ 独りごとを言った。

秋の陽はツルベ落し・・というが、六時を少し過ぎて陽光が土手に遮られた水面はかなり薄暗く、自転車を置いてきた向かい側の釣り人も居なくなり、その自転車も見え難くなる頃・・私は何気なく気が付いたのだ。 水中から泡が出るのと、その釣り人がブツブツ言うのと同時であることを・・。 「コポコポ・ぶつぶつ コポコポ・ぶつぶつ」

このとき初めて私の身体に 言いようのない旋律が貫いた。 そうして、アタフタと帰り支度をしながら・・もう一度その釣り人を良く見た時の恐怖を生涯忘れはしない。 真っ白な顔には大きな黒い穴が二つ、じっと泡を見つめていた・・。

真の恐怖というものは全身がシビレル・・のを貴方は御存知だろうか?。 その後のことは、どう行動したのかほとんど記憶にないのだが、おそらく何か叫んだのだろうとは思う。 が、あるいは声が出なかったのかも知れない・・。 確かなのは・・釣り道具をそっくり置いてきたこと、対岸をチラッと見たとき青白いカタマリが夕闇に浮き出ていたこと、全身水浸しで手が血まみれのまま治水橋を懸命に自転車をこいでいる自分の姿の残影と、そうして、その切り傷が今も左手に残る・・・。

ja1mvm masa


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