彼は、いっさいの妥協をしなかった。他から見ていると不器用なくらい生き方がへただった・・・何事でもそのままぶつかっていってしまうのだ。そのためずい分誤解されたりもしたし、最後には火宅の人にもなってしまった。・・・こういうと誤解される方もいるかもしれないのだが、その生きざまは、本来の意味に於いてのドン・キホーテと似ていたと思う。自ら信ずるところに生き、自ら忠実過ぎるあまり死んでしまった。・・・あまりに急ぎすぎて、あらゆるものと戦って、戦死してしまったのだと言うように思えてならない。いまは冥福を祈るのみだ・・・・・・・・・長島 達夫

・・・・・・瀬川さんの美の追求はもちろんオーディオのみにとどまっていたわけではない。専門の工業デザインから、もう一つの趣味であったカメラ、さらには美食、美酒にいたるまで、およそ感性につながるあらゆる分野に賓欲なまでにベストを追いつづける姿勢は、オーディオに対するそれと少しも変わる事がなかった。しかもそうした美への探究がすべて再びオーディオにフィードバックする形となって、一段と実りを豊かにした事も確かであった。46年という短い人生を終えた瀬川さん・・・いまはただご冥福を祈るのみである。・・・・・・・・・山中 敬三


いかがでしょうか(?)瀬川冬樹という、人と成りが少しでも伝われば何も言う事はありません。オーディオ界には、かってこういう評論家がいたのである。瀬川冬樹が活躍した1960〜1980年は日本のオーディオの世界が一番活気にあふれた時代であった。特に1970年代は大手電機メーカーがオーディオ界に参入し、名ばかりの高級ステレオが巷にあふれ、それに惑わされた人も多かったのではないかと思われます。売らんかな・・のメーカー側にとって瀬川冬樹は、さぞ一筋縄ではいかない厄介な存在であったことでしょう。 この時代にせいいっぱい生きたことが瀬川冬樹にとって唯一の慰みであると思います。 そうして、私のオーディオに関する感性は、たった一人の人間 瀬川冬樹から貰ったものです・・・・・・合掌。                    
                                       

Stereo Sound 殿へ・・・無断でページに掲載したことをお許しください。 氏の紹介にあたり最も適切に感じたまでで、他意はありません・・・)

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